2018年07月17日

明治維新と長州

今年は明治維新から150周年を迎えています。
まだ日本全国が幕府方、薩摩も広島も長州も土佐も幕府であった時代に、打倒幕府と立ち上がった人物こそが高杉晋作です。
その高杉晋作と明治維新を追いかけ、写真に写してみましたので随時公開していきます。
(敬称は略させていただきます)

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「高杉晋作誕生の地・萩市」
長州藩の禄高200石高杉家に生まれます。 萩城下町エリアにある晋作誕生の家は、現在約半分が公開されています。

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「松下村塾・萩市」
吉田松陰が指導していた私塾で、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られています。
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「講義室」
「君の志は・・・」と問われると・・・?
高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、山縣有朋、木戸孝允他

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「清狂草堂・柳井市遠崎」
幕末の勤王の僧、月性(げっしょう)が教えていた塾です。月性は高杉晋作と双璧と言われる久坂玄瑞を松陰に紹介したと言われます。
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「月性像」
男児立志出郷関(男子志をたてて郷関をいず)
学若無成死不還(学もし成る無くんば死すとも帰らず)
埋骨豈期墳墓地(骨をうづむるに何ぞ期せん墳墓の地)
人間到処有青山(じんかん到る処せいざんあり)
の漢詩を御存じの方は多いと思います。

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「小瀬川の渡し・岩国市小瀬」
このころ薩摩を筆頭に幕府の長州弾圧が強くなり、長州も幕府方(保守派)と討幕方(改革派)に分かれます。そして保守派の力が優位になると、改革派は徐々に処刑され吉田松陰も江戸送りとなります。
長州と芸州の国境の小瀬川の渡し、ここに吉田松陰の句碑があります。
「夢路にも かへらぬ関を打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」と刻まれています。

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「晋作像・功山寺境内・下関市」
ここは下関市長府の功山寺、高杉晋作は三条実美ら五卿の前に甲冑姿であらわれ、「長州男児の肝っ玉をご覧いれる」と、伊藤博文ら約80名とともに、討幕一筋(改革派)の高杉晋作がここ功山寺境内で決起しました。

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「金麗社・美祢市美東」
このころ長州は、幕府の圧力や薩摩の根回しで保守派(幕府派)と改革派に分かれ、藩の実験は保守派が強く改革派の多くは処刑されています。
立ち上がった高杉晋作はここで諸隊と合流、大田絵堂の戦い、つまり萩保守派と戦うため改革派の本陣がおかれました。
(騎兵隊、膺懲隊、遊撃隊、八幡隊、南園隊、御楯隊)

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「絵堂の戦い」
維新への戦いはこの地「絵堂」で始まりますが、山縣有朋率いる騎兵隊によって高杉軍の勝利となります。高杉晋作や改革派の討幕論が変わらなかったのは、函館まで新選組を追いかけるなどから判断すれば、京都で亡くなった同士(久坂玄瑞たち)の仇討ちの思いもあったように考えられます。

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「白石正一郎邸跡」
高杉晋作ら討幕派(改革派)を支えたのが下関の豪商白石正一郎、ここ白石正一郎邸はあの「騎兵隊」が結成された地、白石正一郎は高杉晋作の騎兵隊設立に資金援助をし、自らも騎兵隊に入隊し金庫番をしていたと言われます。
さらに、民間組織であった騎兵隊に、軍備購入の資金負担もしていたと伝わります。

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「四境戦争芸州口・和木町」
本格的に討幕に動きだした長州に対して、幕府も長州征伐を命じますが、多くの藩が日和見てきで薩摩、広島、津和野、佐賀、福岡、土佐など多くの藩が参加していません。
ただ、
長州藩は、高杉晋作が独断でグラバーから軍艦や武器など購入していた事実からすると、「武器が買えなかった長州が薩摩名義で・・・」の説は小説の中の物語だとも思えます。また坂本龍馬は商人ですので、薩摩の名前で買い長州に売るというビジネスであったように思えます。
四境戦争とは、
芸州口・・・主に彦根藩、広島藩は不参加、長州は毛利幾之進が指揮。
石州口・・・不参加中立を表明した津和野藩(町並みが残りました)をかわし、大村益次郎が指揮。

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「大島口・妙円寺・柳井市遠崎」
月性の生まれた妙円寺は大島口の出発のお寺です。第二騎兵隊と洪武隊がここを出発し、大島の西蓮寺で幕府軍との戦いに挑みます。
大島口・・・松山藩と幕府軍が参加、長州は高杉晋作が指揮。
小倉口・・・佐賀藩、福岡藩は不参加、長州は高杉晋作が指揮。
この戦いに長州が勝利したことで、流れは一気に長州側へ加速します。

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「御手洗条約・広島県豊町」
現在の呉市御手洗は中四国九州一の花街でした、参勤交代や七卿が長州へ落ち延びる時もこの花街に立ち寄られています。(山口県ではありませんが歴史上大切な部分であり掲載します)
御手洗条約はこの町の金子邸で締結され、その後一気に長州有利に展開していきます。
芸州(広島) 薩摩(鹿児島) 長州(山口) 土佐(高知) 肥前(佐賀)
肥前は現在の佐賀県、維新戦争では軍備力として重要な藩です。
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さらに、薩摩藩、広島藩はここ御手洗で密貿易を行っており、品物は長崎経由の武器のようです。また、長崎ではそのことが幕府に知られることとなり、自らの立場も危うくなり薩摩も芸州も長州に同調したように考えられます。
ですから、
御手洗は花街であり密輸の舞台として、明治維新に大きくかかわります。写真は御手洗一の遊郭「若胡子屋(写真)」の庭、薩摩石が使われていると言われます。
関門海峡で長州が攻撃した外国船、
どこに向かっていたのか不思議でしたが、御手洗に向かっていたのですね。
また、
御手洗花街の歴史には長州がかかわっています。
花街としての御手洗は、現在の山口県上関町の遊郭が御手洗の移転したのが始りだそうです。その時船で行ったことで、船を使った「オチョロ舟」と言われる売春が行われていました。
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「オチョロ舟」(画像掲載の了解は頂いています)
そうしたことでも、御手洗と長州のつながりは深く、七卿落ちも御手洗に立ち寄っています。ぜひ一度御手洗にもお出かけください。(遊郭は昭和31年までです。)

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「高杉晋作終焉の地」
高杉晋作は肺結核のため、林算九郎宅の離れ屋敷で人生の幕を閉じます。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」・・・場所はJR下関駅の少し南になります。
(長期に晋作さんを追いかけていますので、写真が古く申訳ありません)

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「大村益次郎の墓」
大村益次郎は新しい政府に反対する武士に襲われ亡くなります。お墓は現在の山口市鋳銭司(すせんじ)長沢の池の傍にあります。

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「高杉晋作の墓」
彼の遺言で騎兵隊の本拠地の近く、現在の下関市小月東行庵にあります。

(間違いの無いように書いたと思いますが、間違っていたらご勘弁ください。小説とは少し異なります)
Hirokane

タグ:維新
posted by 広兼高士 at 16:11| Comment(0) | 明治維新

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